祝福の行事

 大阪に住むタイガースファンの習性と言っていいのでしょうが、優勝した翌朝、駅の売店で言う決まり文句は
 
 「スポーツ新聞、全紙くれ」
 
 なわけです(笑)
 と言うことで、ファイターズが日本一になり、我々が愛した新庄が宙に舞った翌朝のワタシの行動は言うまでもなく、いつもの駅前の売店で、
「おばちゃん、スポーツ新聞、全紙くれ」
だったわけですよ。
 …まあ見事に全紙新庄一色(笑)
 
 とは言え、選手全員がセンターまで移動して、監督より先に選手を胴上げしたというのもまた今季のファイターズらしくていいかもと思ったりしたわけですよ。
 
 日本シリーズを戦った相手であるナゴヤ軍は、「オレ竜」なるキャッチコピーの通り、監督が選手より目立ってるチームです。スター性のある選手のいないナゴヤ軍だけに、それはそれでまあエエんですが、野球やってるのは選手なわけで、選手が繰り広げるひとつひとつのプレーよりも采配とかベンチワークとかを重視するのは日本的(あるいは水島新司的)野球観の悪しき影響だと思うわけですよ。
 水島新司の思想的バックボーンであり、ある意味日本的な「ベンチワーク主体の野球」の総本山とさえ思われている野村克也監督ですら、
「采配で勝てる試合なんてシーズン通して10試合あるかどうかだ」
と言いきってますから、そろそろ「采配」ではなく「選手」が試合の帰趨を決めるのだという考え方に回帰した方がいいように思うわけですよ。
 まあ、「采配」=監督に勝敗の責任を押しつけた方が、フロントは都合がいい(成績が悪ければ選手ではなく監督のクビを切れば済む。仮に選手に成績不振の原因を問うなら、全ての試合で詳細なスカウティングをしなければならず、フロントにもそれ相応の野球に対する知識が求められる)と言えばそれまででしょうが。
 
 個人的には、落合というヒトを高く評価しているのですが、だからこそ「もう選手じゃないんだから、アナタが目立ってもアカンのと違いますか落合さん?」と言いたくもなるわけで。